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2014.06.09
『梅』の王様の『南高梅』とは?
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  『松竹梅』の『松』から始まり、『竹』を前回紹介した。今回は最後の『梅』についての話題を提供しよう。
  江戸時代は完全に循環型社会が構築されていた。さまざまな工夫がされており、一部の国としか交易がなく、約200年続いた鎖国の状態で、海外にエネルギー源を頼ることなく成り立っていた。
  当時、江戸は100万人の人口をかかえていたが、他国に頼ることなく、循環型社会として実にうまく機能していた。このような社会をすでに日本で築きあげていたことは素晴らしいことである。
  しかし、すべてが良い時代ではなく、苦難の時代もあり、『享保』(1716年?1745年)においては瀬戸内海沿岸一帯の中国・四国・九州地方で大飢饉が発生し、享保の大飢饉ともいわれ大変な時期があった。
  ここでメスを入れて改革したのが八代将軍の徳川吉宗が従来の慣習に捉われないで実施したのが『享保の改革』である。『寛政の改革』や『天保の改革』とともに江戸時代の幕政改革の三大改革の一つでもある。
  実は、この徳川吉宗は、将軍になる前は、紀州の藩主を務めていたのである。もちろん、この紀州藩主時代にいろいろと財政を立て直し、改善した実績がある。その中で『梅』の栽培を提案し、梅干の保存を奨励したことでも知られる。吉宗自らが率先しての質素な生活を実践するとともに、倹約による経費節減、経歴に関係なく有能な人材であれば登用する方式の採用、そして大規模な新田開発事業によって耕作量の増加によって年貢の増収などを図って財政を安定化させた実績がある。
  さて、吉宗が紀州藩主で運営して場所といえば、紀伊半島にあり、紀伊水道に流れこむ黒潮の影響から気候が温暖で、1年と通して1,500?2,000ミリという降雨量が多く、日照時間が長いため、和歌山県はみかんや梅の栽培には適している環境でもある。
  日本一の梅の里・みなべの土壌は約6,000年前、海から隆起した地層からなり炭酸カルシウムを多量に含んでおり、このカルシウムは『梅』を育てる上でも重要な要素となっている。梅は約300種類にもなるといわれ、その中で、紀州の『南高梅』は樹勢強健で豊産でもある。
  このみなべ町では、2月となると梅の花が満開となり、白いじゅうたんを敷きつめたような美しい風景を見ることができ、『ひと目 百万本、香り十里』と詠まれる日本一の『梅の里』でもある。
  以前にも紹介したが、改めて紀州・和歌山県が生んだ『南高梅』について紹介すると、みなべ町には、約1,300年前にこの地方を支配していた御名部内親王が梅を好んで植えたという伝説が残っており、江戸時代には田辺藩主が梅の栽培に興味をもち、梅畑の税を免除したことから、みなべ町を流れる南部川に沿って梅林が広がっていったらしい。
  八代将軍・徳川吉宗が紀州藩主時代に梅干の保存を奨励したことなどからみなべ町での梅の栽培が根づいたともいわれる。
『南高梅』はみなべ町で誕生した梅で、明治時代末期に高田貞楠氏が栽培していた60本の『高田梅』のうち、非常にすぐれた1本を育て継いだものが『南高梅』として残ったといわれる。
  『南高梅』の名前は、高田氏の名と、長年調査し、すぐれた梅を選定した南部高校の竹中勝太郎教諭らに敬意を表して名づけられたもので、『梅の王様』ともいわれて広く愛されている。
  みなべ町原産の『南高梅』の果実は大粒種で、皮が薄く、実は肉厚で、種が小さいのが特徴である。梅干しにするのに最適で、『紀州の梅干し』として大変人気が高い。通信販売でも全国に販売されており、歴史と風土に育まれた『南高梅』でもある。
   和歌山県みなべ町、田辺市などで地元産高級品質(A級品)原料を100%使用した梅干を『特選梅干』として認定しており、認定された梅干には『特選(紀州梅の会推薦)』の特選マークを付けられている。ブランドを守る上で、このような認定制度を設けて高い品質を維持しながら普及させている。
  みなべ町では、2000年に『全国梅産地サミット2000』が開催された。
さて、梅について調べてみると1955(昭和30)年代、最初の梅ブームが起こっている。1957(昭和32)年、『酒造法』の改正にともなって、自家用の果実酒が自由化されたことを契機に、梅ブームが起き、『青いダイヤ』と呼ばれ、全国的に栽培面積は一気に拡大したという。
  しかし、その後、1965(昭和40)年代には、梅酒用としては、生産過剰となり、価格は一気に暴落した。 この『南高』という梅は結実性にすぐれ、梅干用の漬け梅に適していることから、アルカリ食品、健康食品ブームにのって一気にトップブランドとなった。『青いダイヤ』から『赤いダイヤ』の誕生である。
  赤いダイヤといわれる梅干しが、日本で初めて書物に登場するのは、平安時代の中頃だという。梅干は食用にみならず薬用としても使われた。
南部農協のデータによると、1977(昭和52)年には、『古城』のほうが『南高』よりも価格が高かったのに、翌1978(昭和53)年には『南高』のほうが逆転して高い価格に変動が見られたという。このあたりから、『南高』の栽培面積が増えていったらしい。
  1965(昭和40)年代の暴落、その後、オレンジ自由化という流れの中、みかん栽培者からの転作などの好条件が重なり、第2の梅ブームが和歌山で開花し、現在の『南高梅』というブランドを築き広く全国に知られるまでになった。海外に居住する日  本人には高級な贈り物の一つになるほど、愛されている。
 梅干を保存するように奨励した徳川吉宗が紀州にいたからこそ、南高梅が梅の王様とまでになったのかも知れない。

 

 

 

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