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テクニカルレポート
2021.06.11
プリント配線板の、黎明期から今日まで(その1)

 

4. 日本経済とプリント配線板の高度成長とその後

 

 1955年の経済白書「もはや戦後ではない」は流行語となった。

 その主旨は「回復は実現し、高度成長期は終わった。これから日本は厳しい時代に入る」だった。

 しかし、日本経済はその予想に反して以降も高度成長をつづけた。

 「神武景気」の名が生まれ、「岩戸景気」、「いざなぎ景気」へとつづいた。

 池田内閣が掲げた「所得倍増計画(10年で月給を2倍に)」は「無理」との予想をくつがえし、10年足らずで達成した。

 図2に1967年~2021年のプリント配線板の品種別国内生産の推移を示す。

 


図2 PWBの国内生産推移

 

 品種ではこの50余年の間に主力製品が片面板、両面板、多層板、モジュール基板(半導体チップ搭載用基板)へと移行してきたことが分かる。

 電子機器の高機能化を実現するために、搭載するLSIの集積度を上げると同時に、プリント配線板の配線容量もより高める必要を反映している。

 図1-4からは、国内生産額は2000年をピークに減少に向かっているように見える。

 しかし、これは日本のプリント配線板メーカが海外生産を拡大したためである。

 海外生産を含めた日本のプリント配線板生産額は横ばい~微増に推移している(図3)。

 


図3 GDPと PWB国内生産の推移(対数目盛)

 

 なお、海外生産額の比率は2020年現在で約50%に達している。

 図3は日本のGDPと PWB国内生産額の推移を対数目盛で示したグラフである。

 プリント配線板は片面板がトランジスタ応用製品向けに使われ始めていたが、1965年以降、IC利用の拡大に同期して急成長を始める(グラフ赤線、左軸目盛)。

 成長率の数字は起点の取り方に依るが、年率30%を超える。

 その驚異的な成長が1983年に突然止まる。

 それ以降、日本の生産額は一進一退を繰り返し、海外生産を含めて年率2%ほどの成長に推移している。

 1983年の急ブレーキは世界的な事件でPCショックと呼ばれた。

 これを機にプリント配線板産業の形態は大きく変わることになる。

 日本経済の高度成長期は1955~1970年とされているが、図に見るようにGDPはその後も増えつづけた(グラフ黒線、右軸目盛)。

 1965~1980年くらいまではGDPの成長は PWBに近い高度成長をつづける。

 その後、成長は減速し、1992年以降はほとんど成長ゼロの時代に入る。

 1970年代、1980年代に起きたオイルショックなどの世界経済の地殻変動の影響が日本経済、社会に徐々に変化を及ぼし、そのひずみが蓄積して1990年ごろ一気に顕在化したものと思われる。

 以降、日本のGDPは横ばい~低成長の時代に移行する。

 プリント配線板産業の成長は、単なる規模の拡大ではない。

 集積度を上げていくIC、それを用いる機器用途の拡大に応えるため、走りながらさらに技術レベルを高めていく必要があった。

 まずは先進の米国に学び、追いつき、さらに独自技術も形成していかなければならなかった。

 次回は、この辺りを中心に述べることにする。

 

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(※注1)筆者は1953年、東芝マツダ研究所(川崎)で開発中のコンピュータ(東大・東芝の共同開発。通称TAC)を見学した。

論理素子に70 00本の真空管とメモリ素子に16本のブラウン管(真空管の1種)を使用していたが、特にブラウン管メモリがデリケートで、つきっきりで調整する必要があったそうである。

ブラウン管1本あたりのメモリはやっと2Kビットくらいだったという。

(※注2)筆者の学生時代、講義はほとんどアナログ系だった。

 就職して、新設ラインのシーケンス制御(複数の装置を一定のスケジュールで動かす)の設計を任された。

 複数の装置を時間割を決めて動かす必要があったが、アナログタイマーを多数個使うしかなかった。

 デジタル時代になり、時間制御がいとも簡単にできるようになって感動したものである。

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