1. まえがき
世界の歴史を数十年、百年のスケールで見ると、比較的変化の少ない平和、平穏な時代と激動の時代が交互している。
激動期の最たるものが戦争と革命である。
日本では江戸末期~明治時代と第二次大戦後の復興~高度成長期の時代は激動期であった。
この時期に従来の社会構造、秩序、価値観のすべてがひっくり返り、全く新しい社会に変わっていく。
日本は第二次世界大戦に敗れ、昭和20年(1945年)、アメリカの軍政下に置かれた。
日本は焼け跡から復興に向けて懸命に働き、朝鮮戦争の特需もあって、戦後10年で戦前のピークにまで回復し、その後も10数年にわたり日本経済は高度成長をつづけた。
有線、無線の通信機は戦前から軍用、インフラ向けに使われていた。
当時の能動素子の主役は真空管である。
アメリカでは戦前から家電製品の使用がはじまっていたが、日本の庶民にはどれも高嶺の花だった。
戦後の経済復興で庶民の暮らしが上向いてくると、技術的には知られていても経済的な理由で手が届かなかったさまざまな電気製品が庶民、家庭まで届くようになった。
そこにトランジスタ、IC(集積回路)の発明、プリント配線板の普及が加わって全く新しい電気製品がつぎつぎに開発されてブームとなった。
こうしてエレクトロニクスが一大産業として急成長し、日本経済の高度成長に大きく貢献した。
筆者は旧制中学2年で終戦を迎え、以降、戦後の復興、高度成長を目の当たりにし、高度成長の終わり、成熟にいたる過程をプリント配線板製造の現場から見てきた。
以下、本稿ではこの熱気にあふれ、かつ波乱に満ちた時代の日本経済、プリント配線板の時代を振り返り、いくつかのエピソードも含めて紹介する。
2. 戦後の主な出来事、世相と登場する電子機器
図1は終戦と日本社会の復興時代とその後の高度成長時代の出来事、世相と、新らしく登場する電子機器、それを支える電子機器の素子と実装技術を示した表である。
1945年の敗戦で日本はアメリカの占領下におかれ、廃墟から復興がはじまった。
1953年、白黒テレビの放送が始まる。
当時、受像機は高価だったため、駅待合室の高所に置かれたテレビを大勢の人が見上げたものである。
テレビ、電気洗濯機、冷蔵庫はアメリカンライフの象徴だったが、日本の庶民には手のとどかない、あこがれの製品で「三種の神器」と呼ばれた。
この時期は貧しいながらも、世の中はこれから良くなっていくという明るい雰囲気があふれていた。
女性に選挙権が与えられたのはやっと終戦1年目(1946年)のことだが、その後の女性の意識の高まりと元気には目を見張った。
女人禁制の大峰山に女性だけで強行登山する、エベレスト登頂に挑戦するなど世間を賑わし、ミニスカートがブームになった。
「戦後、強くなったのは靴下と女」が流行語となった。
女性のストッキングは素材が絹糸からナイロンに換わって寿命が格段に伸びたのである。
皇太子ご成婚(現上皇と美智子妃の結婚)は開かれた皇室のイメージもあって「ミッチーブーム」となった。
ラジオドラマ「君の名は」が大ヒットし、「よろめき」が流行語となったのは終戦後5年~10年で白黒テレビが普及し始めた頃であった。
日本人の平均寿命は1950年の男性58歳、女性61歳から、1980年には男性73歳、女性79歳へと大幅に伸びた。
図1 家電テイクオフの時代と電子機器の構成
3. 電子機器の構成の変遷
戦前のラジオ、無線通信での電子回路の主役は真空管だった。
戦後も白黒テレビまでは真空管が使われた。
それがトランジスタの発明(1947年)で真空管は数年のうちにトランジスタに駆逐されていった。
いち早くトランジスタラジオ(1955年)が発売され、テレビもトランジスタ化された。
当時のテレビメーカーのコメントに、トランジスタ化で「テレビの故障が劇的に減った」とあったのを記憶している。
国産コンピュータTAC(注1-1)は真空管70 00本も使用する大規模コンピュータで、記憶装置にはブラウン管(これも真空管)が使われた。
1950年ころに開発がはじまったが完成までに9年もかかった。
一番苦労したのは真空管の保守だったといわれる。
真空管はアナログ素子であり時間と共に特性が変化する。
また真空管はフィラメントを用いるので寿命があり、その交換は避けられなかったのである。
トランジスタ化で電子システムの信頼性は格段に向上した。
それから数年後、1枚のシリコン基板上にトランジスタ以外の電子部品(R、C)と配線も同じプロセスで作りこむ技術(IC技術)が特許化された。
電子回路に必要な素子がすべて1枚のシリコン基板上に作り込めるという発明で、以後の電子回路の作り方が革命的に切り替わった(これを「モノリシック集積」と呼ぶ)。
当時の新聞には「IC革命」のタイトルの特集記事が載り、電子回路はいずれすべてICだけになっていくだろうと予想された。
実際、その後開発された電気製品の機能素子はすべてIC(LSIを含む)になった。
しかしいずれ要らなくなると予想されたプリント配線板は生き残り、ICと並んで高度成長していった(本稿「4.」項参照)。
真空管がICに替わってもプリント配線板が残ったのはなぜか。
まずサイズの小さいトランジスタ、ICを支持する台として不可欠だった(今も使われる用語「基板」もそこからきている)。
真空管の場合はアルミシャーシにソケットを取り付けて真空管を差し込み、シャーシ裏面にはんだ付けで配線した(写真1)。
写真1 真空管TV
錯綜する配線はジャングル配線と揶揄された(写真2)。
写真2 ジャングル配線
多数箇所の配線を手作業で行うため仕上がりのばらつきが大きくなり、装置の信頼性を低下させた。
トランジスタ、IC、その他必要な電子部品を搭載し、必要な部品間の配線を基板上に形成したものがプリント配線板である。
プリント配線板のアイデアは古いが、実用的な製法はアイスラー特許(1943年)に始まるとされる。
この製法のポイントは絶縁板全面に薄い銅箔を接着し、配線部以外の銅箔部を除去して配線を残すところにある。
配線部以外の領域を除去する方法にはエッチング技術が使われた。
エッチング(食刻)は化学薬品を用いて銅表面の一部を掘って溝を形成する技術で、銅版画製作に昔から使われていた。
アイスラー法のユニークなところは薄い銅箔を用い、銅箔を底(基板)までエッチングすることにより、電気的につながりのない任意の導体パターンを基板上に形成できるようにしたところにある(銅版画製作の場合は、厚い銅箔表面にエッチングで深さの浅い画像を掘る)。
エッチングで形成できるのは1層の導体パターンなので、この方法だけでつくれるプリント配線板は片面板と称される。
電子回路のシステムがIC1個で足りる場合はプリント配線板を必要としないが、通常のシステムは複数個のICを使用し、IC以外の部品も搭載するので、これら部品間を接続する配線も形成されたプリント配線板が必須となる。
プリント配線板の発明は画期的で、トランジスタ普及と同時に片面板の使用が一気に広がった。
ただ、片面板の弱点は形成される導体パターンを交差させられない(交差箇所で電気的にショートする)ことであり、配線の立体交差の可能な配線板が求められた。
1枚の板の表裏に配線パターンを形成し、任意の箇所で表裏の導体をつなげることができれば2枚の片面板の合計をはるかに上回る配線を収容することが可能になる。
その目的のためさまざまの方法が試みられたが、結局、めっきスルーホール(Plated-Through-Hole. 略してPTH)技術がメインとなった。
PTHを用いる両面板が作れるようになると、間を置かずにPTH多層板の生産がはじまり、急速に進むIC集積度アップに対応すべく、層数の多い多層板(高多層)へと技術開発が続いた。
その結果、1965年ころの「IC革命」で予想された、いずれプリント配線板は要らなくなるとの予想は外れ、IC市場の急拡大と同期してプリント配線板生産も高度成長を遂げることになった(「4.」項参照)。
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