イースター島(英:Easter Island)はチリ領の孤島で、太平洋上の西経109°26′、南緯27°9′に位置し、面積は約180平方kmで日本の佐渡島の4分の1程度の大きさの火山島である。
現地語名はラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語:Rapa Nui)で正式名はパスクア島(スペイン語:Isla de Pascua)である。
チリの海岸線から約3,800km西に位置し、タヒチからも約4,000km、人の住むもっとも近い島ピトケアン島からも約2,000km離れている太平洋上の孤島である。
イースター島の位置する南太平洋一帯は地球上でも火山の活動がもっとも活発な地域とされている。イースター島はその中でも最大級の火山をもつ島である。約170万年前にイースター島の土台となっている岩盤が誕生し70万年前に噴出したマントルによって海上に島として形成されたという。
イースター島はラノカウ、プアカティキの2つの成層火山と亀裂火山のテレヴァカの3つの火山から成り立っている。20万年ほど前には火山活動は終わり、海流による漂着や鳥によるもち込み、胞子の飛来などによって植物が入り込んできたともいわれる。
イースター島の民族の起源は先住民はいなく、当初、南アメリカからきたという説が有力視されていた。その根拠としてはペルーのインカ帝国の文化遺跡がイースター島のそれと似ている点、さらにサツマイモなど食物の起源を南アメリカにもつものがあるという点などである。しかし、南米大陸から4,000kmも離れているので、どのようにして移住したのかという疑問が残っていた。
そこでノルウェーの探検家トール・ヘイエルダールは、この説を証明するため、丸太を組んで作ったいかだ『コンティキ号』を使い、ペルーのカヤオから出航して孤島を目指した。風と海流にまかせる検証の船旅である。そして、約100日でタヒチに近いトゥアモトゥ諸島に漂着したことによって南米からの移民は可能だということが実証されたのである。
一方で、イースター島民族の血液型遺伝子が、東南アジア・ポリネシア圏の民族と同じ構造であり、南米のそれとは全く異なっているという点で、東南アジアを起源にしてポリネシア経由で移住してきたとする説が最近、有力視されている。
6?7世紀になるといくつもの血族グループに分かれて王に統治されるようになったという。そして各血族の神化された先祖がモアイという形で祭られるようになっていった。
イースター島は緑豊かな島で、人々も平和に暮らしていたものの人口が増え、食糧もままならない状態となり、ついには部族間で争うようになったという説がある。
住民が増えるにしたがい、森は燃料として伐採されて利用された。その結果、自然の恵みは少なくなり、大地は荒廃し、土地がやせ、島民は食糧を作ることができなくなり、ついには人が住める環境ではなくなってしまって自らを滅ぼしてしまったという経緯がある。
今の地球は人口増もあり、対策をとらないと、地球の将来は、このイースター島と同じ運命となるのではないかという感じを受ける。
いずれにしても一般的には、この孤島は『イースター島』の名前で知られる。1722年4月6日に西欧人で初めてこの島を訪れたオランダの提督ヤコブ・ロッゲフェーンがキリストの復活祭(イースター)の日に発見したため『イースター島』という名前がつけられ、この名前で一般的に知られている。また1774年にはイギリスのクック船長もこの島を訪れている。
この島には、モアイと呼ばれる実に不思議な石像が、島のあちこちに立っている。イースター島が紹介されるのは、このモアイ像によってであり、象徴的な存在となっている。モアイ一つは平均5m前後、重さは4?5トンである。さらに巨大なモアイ像では、高さ20m、重さ50トンにもおよぶものもある。
約230体のモアイはそれぞれ島の斜面にたたずみ、海の方角を見据えている。島の東部にある死火山ラノ・ララクの斜面には切り出し途中と思われる未完成のモアイ像もあり、それらを含めると実に1,000体を越す数である。これらの石像は荒削りの凹凸面で、それは石のみを用いられてつくられたと見られている。どうもこのモアイ像は部族間の力の象徴として立てられ、征服の象徴として倒され、目を削られたともいわれている。
このような重いモアイ像を重機のなかった時代に石切り場からどのように海岸付近まで運んだのであろうかと疑問が投げかけられている。寝かせて木を並べて転がしたとの説があるものの、最近、この説からモアイ像を立てたままロープで結び左右から交互に引っ張って揺らすことによって前に進めることを実証したのである。
モアイ像の首あたりに鋭い切り込みがあり、ここにロープを巻き込んだのではないかとの仮説で、ロープで右に引っ張り、その後、左にあるロープで引っ張ってモアイ像を揺すり、徐々に前に進めるといった具合である。さらに方向を変えることも実証しているのである。
さて、ここで話は変わる。1960年に起こったチリ地震の影響によって、南三陸町(旧志津川町)は津波の被害を受けた。この津波被害がきっかけとして南三陸町とチリとの交流が始まり、1991年にチリから両国の復興と防災の象徴として、海辺の公園にイースター島にある本物と同じ石で作られたというモアイ像がチリから町に寄贈された経緯がある。
しかし2011年3月11日の東日本大震災の地震で発生した津波でこのモアイ像の頭部分が流されれたしまった。東日本大震災の悲惨な被害状況を知ったチリでは、チリ経済界が中心となって、「2代目」のモアイ像の製作にとりかかり、2012年末までには完成し、再度、南三陸町に寄贈されるという。
また、宮城県南三陸町の志津川中学校は、旧志津川町で41人が亡くなった1960年の昭和チリ地震津波の教訓を忘れまいと、海外で地震や津波が起こるたびに、生徒たちが募金活動を行い、被災地に見舞金を贈る活動をしていた。東日本大震災後、チリのパトリシオ・トーレス駐日大使が志津川中学校を訪れ、菅原貞芳校長に対し、「来年3月に再訪し、生徒たちに『チリ共和国賞』を授与したい」ともちかけたという。なお今回の津波によって、志津川中学校では167人の生徒が家を失い、11人が親を亡くしたという。実に痛ましいことである。
さて、モアイ像の上部は津波で流されてしまったものの、チリと日本と繋がった絆はきれることなく、またチリからモアイ像が戻ってくる。チリ本土から約3,800kmも離れたイースター島の象徴でもあるモアイ像が宮城県の南三陸町に再度、届けられるのである。
地震がもたらした津波は遠く離れた日本まで到達し、被害をもたらしたが、人間との繋がりが逆にできたことは喜ばしいことである。
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