ブックタイトルメカトロニクス2月号2021年

ページ
42/52

このページは メカトロニクス2月号2021年 の電子ブックに掲載されている42ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「ブックを開く」ボタンをクリックすると今すぐブックを開きます。

概要

メカトロニクス2月号2021年

42 MECHATRONICS 2021.2第32回 <貿易摩擦を生んだ背後には日本製品が・・・> 米中貿易摩擦が表面化したのは、実は、2016年の米国大統領選挙の期間中、のちにアメリカ合衆国大統領になるドナルド・トランプ氏は、選挙期間中に、中華人民共和国との間の膨大な貿易不均衡を問題として取り上げたのが始まりであり、それが今や「貿易戦争」とも言われるようにまでなり、二国間で争っている。 このような貿易摩擦は、中国だけで始まった訳ではない。二国間の通商問題は古くからあり、米国は日本に対して、1950 年代に繊維製品で、1960 年代には鉄鋼を巡り日米間で大いにもめた。そして1970~1980 年代に入ると、欧州も加わり自動車や家電製品でも貿易摩擦の火種となった。 欧米との貿易摩擦は貿易不均衡問題に加え、日本企業の追い上げに危機感をもった現地メーカーや業界団体が政府や議会に助けを求めたことが背景にあった。日本は、品質に優れる製品で、しかも安い価格で集中豪雨的に相手国に輸出したため、貿易摩擦は激化してしまった。 今回は、1950 年代から始まった日米の貿易摩擦に関して紹介する。???? ???????? 戦後まもなくすると1950年代には、日本は安い労働力を駆使して綿製品、合板、洋傘骨、金属洋食器等の労働集約的な製品を輸出することで外貨を稼ぎだし始めた。 米国では 1954 年以降、綿製のブラウス、スポーツシャツ等縫製品が急速に流行した(写真1)。 日本製の安価な女性用ブラウスは米国で人気商品となった。1953 年に制作された名画「ローマの休日」で主役のアン王女(オードリー・ヘプバーン)が着ていたのが白いブラウスであった。 さて、米国の繊維業界は事態を重んじ、議会に働きかけて「輸出制限法案」を成立させる動きをした。これに対して日本側が輸出自主規制を行って保護法案の成立を回避する方策に出て、幸いにも法案は成立しなかった。特定非営利活動法人 日本環境技術推進機構 青木 正光 しかし、その後、1960 年代末から1970 年代初頭にかけて再び繊維を巡る貿易摩擦が発生した。 1968 年の大統領選挙で共和党のリチャード・ニクソンは民主党の牙城であった南部の票を狙った作戦(「南部戦略」)を採用した。サウスカロライナ州やジョージア州等の南部の主要産業の1つは繊維産業であり、そこでの票を獲得するために日本などからの繊維製品の輸入を制限することを選挙公約に掲げた。 これを踏まえて、翌1969 年7 月の日米経済合同委員会でニクソン政権の方から日本に対して繊維製品輸出自主規制に関する二国間協定締結が提案された。 大統領の選挙公約であったことや米国経済が後退局面入りしていたことなどを理由に日本に対して輸出自主規制を迫った。日本側は通商産業省も業界も自主規制協定に反対したが佐藤栄作総理大臣は繊維製品の輸出自主規制を受け入れることになり、1972 年1月に政府間取り決めが調印された。 当時米国の施政権下にあった沖縄の返還問題があり、米国側は繊維摩擦問題をもち出しとも言われ、当時、沖縄返還と輸出自主規制との関係について、「糸で縄を買った」など様々な憶測を呼んだことでも知られる。???????????? 1950年代の米国の鉄鋼産業は、世界最大の生産量を誇り、空前の好況を享受していた。当時の鉄鋼産業は典型的な寡占産業であり、鉄鋼の製品価格はメーカーのコントロール下にあった。 こうした環境の下で企業は労働組合の賃上げ要求にも寛大に応え、コスト上昇分は価格に転嫁した。また、当面の企業利益を最大化するために設備投資や技術開発を抑制し次第に競争力を失っていった。 一方、日本等の鉄鋼メーカーが争って導入していた“連続鋳造設備"について米国鉄鋼メーカーの関心は低く、他国では時代遅れになった平炉や小型高炉がなお幅を利かせる状態であった。 米国の鉄鋼産業の国際競争力は着実に低下していった。さらに1959 年の116日にもわたる長期鉄鋼ストライキを契機に米国は鉄鋼製品の輸入が急増した。その後もユーザー側は3年毎の鉄鋼産業の労使協定更新に備えて鉄鋼製品の入手先の多様化を図る動きを拡大させ、鉄鋼輸入は増加した。 1968年、米国の鉄鋼メーカーは増加する外国製品の脅威に対抗するため、時のジョンソン政権に対して輸入制限措置を求めた。このため米国と日欧との間で鉄鋼に関しての輸出自主規制協定(1969年1月~1971 年8月)が締結された。 この協定が切れた後には、1975 年に日米間の市場秩序維持協定、1976年には対日ダンピング訴訟に踏み切ったり、「トリガー価格制度」を発足させ、数量規制ではなくダンピング輸入防止の観点から価格規制に切り替えたりした。1984 年から5 年間続く新興工業国との価格規制が行われている。???? ?????????? 米国の家電などを扱う電子業界にトランジスタラジオ、自動車用無線(CBR)、白黒テレビ等と立て続けに日本製の輸入品が米国市場に入り込んだ。 米国の家電メーカーは日本の家電製品でシェアを奪われており、カラーテレビはいわば最後の砦的な製品であった。 米国のラジオ・テレビメーカーはRCAを除けば比較的規模が小さく、経営の多角化や海外市場の開拓には遅れをとっていた。 1960 年代から1970 年代にかけてテレビ受像機でも米国と貿易摩擦が発生した。日本製白黒テレビの輸出が1956 年に開始され、1960 年には対米輸出が始まった。 米国電子工業会(EIA)が日本製テレビに対するダンピング提訴を1960 年に行っている。EIA の対日ダンピング提訴は、その後、1968 年にも日本のメーカー11 社に対して行われており、1971 年3月にはソニーを除く10 社のカラーテレビについてダンピング認定が下された。 日本企業が自国市場での販売価格より大幅に下回る価格で輸出しているとの現地メーカーからの提訴によるものだった。 カラーテレビを巡る貿易摩擦では米国の業界が1968 年の対日企業ダンピング提訴を始めとして、相殺関税法、エスケープ・クローズ、関税法337条等あらゆる法的救済措置を求める訴えを行っている。 第1 次石油ショック後の1975~1976 年には日本製カラーテレビが米国市場で爆発的に売り上げを伸ばした。省エネルギー化が進んでいることに加え安価であり、さらに小型であることが個人用需要に受け入れられたのである。 日本の各メーカーがカラーテレビ製品にトランジスタを内蔵して品質の安定と向上を達成するなど技術革新に注力していたことが米国の消費者に評価されたのである。 テレビをめぐる貿易摩擦はさらに激化し、日本製カラーテレビに関する市場秩序維持協定が1977????????????????????????ラ???????? 年に締結され、対米輸出台数が年間175万台に制