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2014.08.12
戦後初の国産旅客機『YS-11』
ちょっと途中下車 207駅目

 

 今から20年以上前のことだが、当時、急激な円高が進展していたため、原価低減のためにアメリカの材料が使えないかと思い、調達先の品質調査のために一人でアメリカを訪問した。ニューヨークを拠点にして毎日、飛行機を乗り換えての企業訪問であった。5日間で東海岸の4つの州を飛び回るという、くたくたの出張であった。
 たまたまニューヨークからノースカロライナまで利用した航空機が、なんと日本で開発された戦後初の国産旅客機の『YS-11』であった。飛行機に乗るとシート前にあるポケットに入っている安全案内で機種名を確認するのが筆者の癖となっているのである。航空機といえばマクドネル・ダグラス社、ボーイング社で幅をきかしていた時期に、日本製の航空機に乗るとは夢にも思っていなかった。忙しく飛び回る中での日本製の航空機の遭遇である。異国で感動を覚え、強烈な印象を受けた。特に海外のアメリカでの体験となったために『YS-11』についてはその後、関心をもち、『YS-11』に関する本も読んだ。
 前間孝則氏の著書には、『YS-11』の開発秘話から、『YS-11』を育てあげていった航空会社の関係者の努力などが克明に記述されている。そして『YS-11』は『名機』とされながらも360億円の赤字を出し、経営的には失敗であったとも言われる。戦後に開発された国産初の飛行機の教訓とノウハウを受け継ぐことの重要性をも指摘している。
 この、日本が開発した戦後初の国産プロペラ機の旅客機は、1973年までに累計で182機が生産された。日本国内で106機、残りは海外13カ国に販売され、導入の多い順では米国25機、ブラジル14機となる。筆者はその182機の内の1機に、アメリカで乗ったことになる。利用した航空会社はPiedemont航空で、『YS-11』を23機を導入した航空会社である。アメリカ東南部を中心に東はニューヨークから南はアトランタにいたる10の州を結ぶ7,000マイルの運航ラインを保有する航空会社である。
 『YS-11』は開発費約58億円を投じて、『5人のサムライ』によって開発されたと言われる。その5人とは、『零戦』の設計者である堀越二郎、日本大学工学部教授・木村秀政、『紫電改』の設計者の菊原静男、戦闘機・輸送機・練習機・爆撃機などの設計者の土井武夫、『97式戦闘機』や『隼』の設計者の太田稔の5人である。
 『YS-11』の量産1号機(登録記号JA8610)は1965年に生産され、運輸省の飛行検査機として長い間、活躍したが、その歴史に幕を閉じることになった。量産1号機は、日本の航空史上の貴重な遺産となっているために国立科学博物館によって羽田空港の全日空東京第一格納庫に保管されることになった。
 これとは別にもう1機、記念すべき『YS-11』の1号機(登録記号 JA8611)がある。1962年8月30日に初飛行をした機体である。この1号機は国産旅客機として活用された。前間氏の著作から引用すると1号機が初飛行した翌日の各社の新聞には
●「素晴らしい離陸性能/YS-11機、試験飛行に成功(朝日新聞)
●「みごとな初飛行成功」(読売新聞)
●「国産一号機YS-11型飛ぶ/スマート・双発60人乗り」
●「翼をもぎ取られた日本航空史上の新しい
1ページを歩みだした」(毎日新聞)と初飛行の成功を賞賛している。
5人のサムライの、戦前の設計経験はすべて『軍用機』であった。航空機の性能を最優先にし経済性はどちらかというとないがしろにされても良い、これが軍用機の設計思想である。一方で民間輸送機の開発となると快適性、安全性、信頼性、整備性、低運航コストなどの経済性などが重視される設計思想となる。
 軍用機の設計経験しかない設計者が、要求の異なる民間機の開発を手がけたのである。『YS-11』が量産されて海外にも販売されるようになって、様々な問題提起、改善要求が航空会社から突きつけられる形となり、設計思想が異なることに気付き、最後は航空会社の関係者とWorking Togetherの考え方で改善に努めるようになって改善された。
さて、『YS-11』は2006年9月30日の沖永良部から鹿児島への便で、41年の長きにわたる国内定期便の歴史に幕を閉じた。
旅客用はいったん商業営業を終わったが、自衛隊や海上保安庁では、『YS-11』はまだ現役として活躍している号機もあるときくが、いずれは使用されなくなる時期が来ると予想される。
 さらに、今後の航空機開発の参考とするために、宇宙航空研究開発機構は、『YS-11』を航空会社から購入して、安全性のための構造疲労データの蓄積、塩分の機体への影響調査、壁面の構造設計などに役立てるべく検討を実施している。
 日本の航空機工業界をみてみると、戦前の最盛期(1944年)には年間約2.8万機の航空機を生産していたという。
1937年、制式機として『97式戦闘機』が完成。1940年、制式機として『零戦』が完成。1941年、戦闘機『飛燕』(ひえん)が完成。1944年、局地戦闘機『紫電改』(1月)、艦上戦闘機『烈風』(12月)がそれぞれ完成……といった、華々しい実績を誇っていた。
しかし、戦後、GHQにより日本の航空機工業の設備も封印され、工場の生産が停止された、という歴史がある。
 このような歴史の中で風穴をあけたのが『YS-11』の国産旅客機の自力開発であった。機体構造が頑丈にできているため、当初に予想した10年・3万時間の寿命をはるかに超えて、すでに6万時間以上を飛行している号機もあるという。
 点数を100点満点でつけるとなると、初飛行した時は30点、型式証明を取るころには50?60点、航空技術安全協力委員会などから指摘されて改善して80点くらいまでにあがり、1997年には『YS-11』の定時出発率は、99.6?99.8%となる驚異的な数値を記録したという。生産されて30年以上にもなるのに高い安定性を示していることになる。ビジネスにはならなかったが『名機』であったともいわれる。

 

 

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